縦の糸 横の糸 その42015年06月16日 00:00

~森の図書館~

風の電話ボックスがあるところは、実は個人の家です。
でもこんな図書館もありました。





オーナーの佐々木さんが建てた石づくりの家です。


室内のいたるところに、本が置いてありました。



2階から、吹き抜けの下を見るとこんな感じです。





お庭も素敵で、奥には子どもたちが遊べる森がありました。




私たちは、このブルーのテーブルで、
持参してきたお菓子や果物を広げてお茶っこタイム。
〈決してティータイムではない)



昨日のこと、今日のことを思い出しながら、ゆったりとした空間で癒されました。


~ティータイム~

佐々木夫妻のお庭は見事でした。
もともと山だった場所を、ご夫婦でここまでにしたそうです。






そこで本物のティータイム。

ここは、お庭の一角にある小さなおうち。
奥さまのカフェです。





ラズベリーのケーキとコーヒーを注文しました。



奥さまが、
「お皿にのっているハーブをポットに入れて、あとは自分でお湯を入れて、ご自由にどうぞ。」といって、今そこから摘んできたハーブをわけてくださいました。

こんなにたくさんの生ハーブ。
3分間待つのだぞ。



うーん、いい香りです。



なんてお洒落なんでしょう。
前日、お箸で巨大なソフトクリームを食べたおばさんとは、まるで別人、別世界。


おっとっと。(笑)



では、ここまでで、出会った人たち(お喋りをして仲良くなった人)を紹介します。

お恵の女将さん(70代女性)
→私の記憶をひも解いてくれました。松原町の銭湯、松原町の遊佐さんのこと、煮豆やさんのこと、ダイヤ堂というレコード屋さんのこと…などなど。感動しました。
呑ん兵衛横丁のお恵さんのカウンターにいた二人(60代男性 50代女性)
→私と同じところ(釜石市松原町)で生まれ育った人でした。そして現在は、私がかつて住んだことのある千葉に住んでいたました。こんなところでこんな偶然。
タクシードライバー(50代女性)
→この人とは一生忘れられない思い出になりました。詳しくは後日。
風の電話ボックスの庭で出会った人(40代女性)
→山田町に住んでいる方です。お母さんはまだ見つかっていないそうです。
悲しいときや苦しいときに、ここに来てベンチに座ってぼ~っとしていると、何もかも忘れることができるそうです。
風の電話ボックスの奥さま(60代女性)
→なんと私と同じ名前でした。おこちゃんじゃなくて。そして元保育士。私たちの大先輩でした。絵本がたくさんあるわけだ♪


いよいよ次は帰路になります。

縦の糸 横の糸 最終回2015年06月16日 10:40

~山崎さんとの出会い~

今回の旅は、電車、バス、タクシー、徒歩…と、さまざまな手段を使って目的地に着くという旅の目的がありました。
そこには、いろんな人との出会いがきっとあると思っていたし、なんといってもこのおばさん三人がしでかすハプニングを楽しもうと思ったからです。

14日の朝、ホテルのフロントにタクシーを頼んだら、
私たちが外に出るよりも早く、タクシーの運転手さんが名前を呼んでくれました。
そこに立っていたのは、私たちより少し若い女性。山崎さんという方でした。

タクシーに乗り込み、行先を告げると、山崎さんは一瞬言葉が詰まったように感じました。
もしかした、風の電話ボックスの場所を知らないのかな、と思いましたが、
その場所を知っているタクシーはあまりいないと聞いていたので、
その時はみんなでわいわい道を探せばいいか、と思いました。
でも、山崎さんは知っていました。何回か行ったことがあると。

不思議な糸はここから始まりました。

道中、車窓の風景が変わるたびに、震災のことを話してくれました。
山崎さんも自営のお店を流され、今はタクシーの運転手をしているとのことでした。
すべてを失い、未だ仮設住宅暮らし。
一人暮らしの人は、5畳ひと間。二人以上だと4.5畳がふた間。
もう4年も過ぎた今、その現状を聞いただけで、住んでもいないのに多くのストレスを感じました。

波がここまで来たという場所を何度も通り抜け、ニュースにはならなかった小さな集落(まるごと波にさらわれた)を通り抜け、込み入った道を上り、
佐々木さんの家に着きました。(風の電話ボックスの所有者)

ここからは、私が辿った縦の糸、横の糸を箇条書き風にしたいと思います。

まず驚いたのは、山崎さんと佐々木さんは知り合いだったこと。でも山崎さんがここに来たのは震災後初めてだったとのこと。
佐々木さんの奥さまは山崎さんのことを「ちかちゃん」と呼んでいました。
ちかちゃんは、釜石で一番の板前さんだったそうです。

山崎さんにとって、私たちが風の電話ボックスという行先を告げられたことは、ただの偶然ではなかったと思います。誰かによって、山崎さんと佐々木さんの糸がつながれたのだと思います。


私たちが帰るとき、佐々木さんの奥さまは山崎さんに小さなクマのぬいぐるみを手渡していました。誰か津波で亡くなった方の形見のようなものだと思います。
二人には深い深い関係があるのだと察しました。

帰り道、結局帰りも山崎さんに迎えに来てもらいました。
そしてまた車中でいろいろは話を聞かせてもらいました。

おどろいたことに、彼女も私と同じ昭和34年生まれでした。
私たちは、同じころに同じ空の下で生まれたということになります。
不思議な糸を感じました。
私が釜石から離れていなかったら、同じ学校に通って友達になっていたかもしれないと話しました。

私が生まれた「工藤医院」の前を通ってくれました。
母がこの病院で私を生んだのか、父が私の頭の出かかった母を抱いて、分娩室に入ったという話、ここであったことなんだな。両親への思いがつながりました。

山崎さんは、煮豆やさんのことも知っていました。
昭和30年代、私の知っている記憶では、リヤカーで煮豆を売っている人がいて、「煮豆よござんすか~。」と掛け声をかけて歩いて回っていました。糸がつながりました。

釜石といえば、橋上市場。橋の上に市場が建っていたのです。
その橋の上を通った時に、三人の記憶は蘇りました。糸がつながりました。

昭和54年1月15日。新日鉄釜石はラグビー日本一になりました。
忘れもしない私たち34年生まれの成人式。
そのときの思い出を語りました。
まったく違う土地で成人式を迎えた人と糸がつながりました。

そしてここからです。
山崎さんはタクシーのメーターを止めてくれました。そして、釜石で一番古い仮設住宅に、私たちを連れて行ってくれたのです。
そこには、84歳のおばあちゃんが小さな部屋に一人で住んでいました。
遠野さんという方でした。
遠野さんは快く中に入れてくれました。
テレビでは見たことがありますが、実際に仮設住宅に入ったのは初めてのこと。
印象は、狭い。暗い。暑い。
…ここで4年も過ごしたんだ。このおばあちゃん。
玄関を入るとすぐ右にガスコンロがあって、アルミ鍋が置いてありました。
左には暗くてよく見えませんでしたが、お風呂とトイレ。
そしてすぐに5畳の和室。小さな窓。

遠野さんは、今でも住んでいた鵜住居地区に家を建てたいと言っていました。
それが生きる目標だそうです。
鵜住居地区に人が住めるようになるには、あと何年かかるか分からない。
それでも、戻りたい気持ちは変わらない。
そう、笑顔で話す遠野さん。
ハグしてお別れしました。「がんばってください!。」

電車の時間が迫っていたので、急いでタクシーに乗り込み駅に向かいました。
山崎さんとは、再会を約束しました。


~帰路~

そういえば、海鮮丼も海鮮ラーメンも食べていないことに気付いた私たち。
駅の立ち食いで、なんとか目標を達成しました。






電車の中で、何が一番印象的だったかを話しました。
三人は同じ答え。
「一番は決められないな。」
一つひとつがドラマのようでした。
赤い糸、青い糸、白い糸、細い糸…。
様々な糸で、私の心の中に思い出のタペストリーが織り上がったように感じました。



最後に、出会った人たちを紹介します。

遠野おばあちゃん(84歳女性)
仮設住宅で目標をもってがんばって生きている女性。とても綺麗な人でした。
駅のラーメン屋さん(年齢不詳女性)
真っ赤な口紅が印象的。とても親切にしてくれました。
外国人2人組(20代女性)
英語で声をかけたら「ナンデスカ?」と日本語で返ってきました。
日本語を勉強してフランスから旅にやってきたのだそうです。
釜石から次は秋田(男鹿)に行くといっていました。
来月私もフランスに行くと言ったら、とても喜んでいまいた。最後はハグしてお別れ。





最後まで読んで下さり、心より感謝いたします。


                       Fin