北上市立黒沢尻西小学校の旧校舎2013年03月06日 15:51

古いアルバムに残っていました

小学校の卒業アルバムを見てみたら、
私が2年生のときの全焼してしまった校舎の写真がありました。
木造二階建てで、コの字型に建てられた校舎です。
児童数1200人の小学校でした。
もちろん、正面玄関の近くには二宮金次郎像もありましたよ。

校舎の裏手にタンポポがたくさん咲いていて、
理科の時間に外に出て、たんぽぽを摘んだことを思い出します。
 
私が1年生のとき、兄は5年生。
学校で兄を見つけて「おにいちゃ~ん!」と呼ぶと、
兄は走って逃げました。
私が風邪でお休みすると、
兄がわら半紙に包んだコッペパンを学校からあずかってきてくれました。
低学年の頃、「脱脂粉乳」、おそらく最後の時代だと思います。
 

コメント

_ 五右エ門 ― 2013年03月06日 21:00

こんばんは。雪、溶けてきましたよ。は~るよ来い!です。
でもね、こうやって春を心待ちにしていると、冬の神様が怒って、
また、もっさもっさと雪をふらせるんですよ(笑)

脱脂粉乳懐かしいですね。小1の時のみました。まずかったですよね…
思い出すだけでちょっと鳥肌が…
給食当番がカップに注いでくれたんですが、背の高いY子ちゃんが嫌いなのを知っているのに、カップになみなみと入れたんです。1年生なのに、腹が立ったのを覚えてます。
「脱脂粉乳=まずい=なみなみ」の思い出しかありません。
そのせいか2年生から牛乳になったのですが、どうしても飲めなく中学校まで牛乳に悩まされました。今でも苦手です。

おこちゃんの木造校舎立派で生徒数も多くマンモス校だ!
卒業アルバムは校舎に校旗、校歌がお決まりなんだね。
おこちゃんと歳がいくつか違うけどアルバムは校舎に校旗、校歌が載ってた。
今もそうでしょうかね?

わら半紙のコッペパン、届けてもらった!食べずに捨てたけど…(笑)

_ 五右衛門さんへ ― 2013年03月06日 21:39

盛岡の明日の最低気温は-4℃、最高気温は9℃の予報です。
雪の下の球根さんたちが、「早く空を見たいよう」と言っているような気がします。
脱脂粉乳=まずい=なみなみ=Y子ちゃん
というのが、ちょっと気になりますが、まぁいいか。おこちゃんだし。
卒業アルバムと言えば、必ず最終ページにその年の出来事が載っていましたね。今でも載っているのかな。どんちゃんの時はあったような気がします。
当時はなんのことだか、なんでこれが載っているのか意味がわかりませんでしたけど、今になると、なるほどなぁと思いますね。
あれを考えついた人がいるんですね。

校歌が出たついでといっては何ですが、
岩手県釜石市の釜石小学校の校歌をご紹介します。

1 いきいき生きる いきいき生きる
  一人で立って まっすぐ生きる
  困った時は 目を上げて  
  星を目あてに まっすぐ生きる
  息あるうちは いきいき生きる

2 はっきり話す はっきり話す
  びくびくせずに はっきり話す
  人間については よく考える
  考えたなら はっきり話す

3 しっかりつかむ しっかりつかむ 
  まことの知恵を しっかりつかむ
  困ったときは 手を出して
  ともだちの手を しっかりつかむ
  手と手をつないで しっかり生きる

海と山に囲まれた釜石市の小学校の校歌に、「う」の字も「や」の字もありません。こんな校歌はあまりないのではないかと思います。

東日本大震災のあの日、釜石市の小中学校に通う2926人の生徒全員が津波から逃げたといいます。(その日欠席していた5人を除いて)
時間的に下校中だった子どもが多く、自分の判断で高台に避難したそうです。いかに防災教育が徹底されていたかがわかります。

ちなみに釜石小学校の校歌を作詞したのは、作家の井上ひさし氏(放送作家として有名なのは「ひょっこりひょうたん島」)で、岩手にとてもゆかりのある方です。
校歌といえど、私はなにか特別のものを感じます。

_ ビーカー ― 2013年03月06日 21:54

こんばんは。
そうだったんだ。おこちゃんとはつながっていたのね。(いや、操られていたのかも...。笑)

黒西小は、1200人もいたのですね。当時はわかりませんでした。
黒東小も、もちろんお休みすると近所の友達が、パンを届けてくれました。児童数は、1000人位だったかな。(ひと学年が、4クラス)


私も、脱脂粉乳が嫌いで...。1.2年生の頃は、5.6年生が給食の時手伝いに来ていて、カップに注いでもらいました。
必死に「す、すこしで」と言って、底から1㎝。
私は、3年生まで飲んだと思います。


黒西小が火事になり、家からも火の手が見えました。(結構離れているのに)怖かったです。
おこちゃんも、黒東小に通って来ましたか?

_ おこちゃん ― 2013年03月06日 22:23

ビーカーさん、こんばんは。
私は新校舎が出来るまでの2年間、専修大学北上高校に通っていました。
ある意味怖かったです。
お兄さんたちが怖かったのとお姉さんたちが怖かったのと、
トイレが大人用しかなかったので、毎日「怖い」の連続でした。
兄は東小学校にお世話になりました。
東小学校で卒業したと思います。

西小学校は5クラスでした。
火事は2月の寒い夜でしたよね。高く高く火柱が立って、サイレンがいっぱいなって、布団の中で泣いていました。なぜかというと怖かったから。なぜ怖かったかというと、父が出張中で留守。血液型がB型の母と兄が、2年生の私を一人残して火事を見に行ってしまったからです。
翌々日、焼けた校舎を見たら涙が出ました。
最近わかったことなのですが、wakabonさんが一緒に私のズック袋を探してくれたそうです。目玉がくるくる動くうさぎのワッペンのついた赤いズック袋です。かなり執着していますね…(;一_一) 結局焼けて見つかりませんでした(涙)

東小学校は都会的でしたよね。
岩手国体の時に、トランペット鼓隊で合同演奏をしました。
私が5年生のときですから、ビーバーさんは6年生?
もしかして、あの時憧れていたスタイル抜群のバトントワラーのお姉さんだったりして?(゜_゜)

_ ビーカーさんへ ― 2013年03月06日 22:26

と書くのを忘れてしまいました。すみません。

_ ビーカー ― 2013年03月06日 22:59

大きな事件の火事だけど、おこちゃんの文章で吹き出してしまいました。
お母さんとお兄さんは、火事見に行っちゃったんですね。(笑)

おこちゃんは、専北に通ったんだ。どう考えても全員は無理だったはずだもの。
今頃言うのもアレなんですが、当時東小は西小のこと快く思ってなかったんですよ。
東小も新校舎が出来る予定で進んでいたのが、火事のせいで遅れて結局西小が先に出来た。と思っていたから。(本当はわかりません 汗)
小学生の頃のことなので、許してください。

中学校に入学してしばらくは、西小出身と東小出身で揉めたりしませんでしたか?
ささいな事で、ちょっと揉めたりしたもので。(子供のケンカです。笑)

_ おこちゃん ― 2013年03月06日 23:13

本当にひどい2人だと思います。8歳ですよ、8歳。
東小のほうが歴史があるんでしょうね。
仲が良くなかったような気もしますが、よく覚えていません。
たかが東西、されど東西だったんでしょうね。

でも、こうしてブログでお喋りしているんですから、どってことないですよね。
ま、北小学校と南小学校の登場で、大きく変わったこともありますか。

ビーカーさんは、ブログやっているんですか?
もしよかったら、こっそり教えてください。

_ ビーカー ― 2013年03月07日 00:07

すみません、しつこく登場です。
おこちゃんなら知っているかもしれませんが、
黒沢尻小→黒沢尻西小
黒沢尻中→黒沢尻東小
で、その昔ベビーブーム世代で黒沢尻小がマンモス校になって、東西小になって校舎は、上記の様になった。(お下がり。)
そして、北上中が新築された。はずです。

残念ながら、ブログ等はやっていないのです。
新参者ですが、これからもよろしくお願いします。

期待を裏切りますが、バトントワリングでもなかったです。(^_^;)
笛でした。ウンザリするほど、練習しました。

_ 五右エ門 ― 2013年03月07日 08:52

おはようございます。
朝ごはんを食べながらのコメントです。

お母さんや、お兄さんに申し訳ないけど、爆笑でした。
それはB型の特徴かも(笑)
私もB型ですから理解できる!

あっ!ひとり残ったおこちゃんの気持ちお察しします。
それと大きな火事だったのに爆笑してごめんなさい<(_ _)>

そんな思い出って、父や母が歳をとっていく度に思い出していく…
おこちゃんのブログを拝見してから、いろんな事が思い出されていきますよ。
メッセージを送られているようでね…

_ ビーカーさんへ ― 2013年03月07日 11:42

こんにちは。
東小学校のこと、初めて知りました。
建て替えが先だったから、てっきり古いのかと思っていましたが、
校舎がお古だったわけですね。なるほど。ありがとうございました。
それで、新築された北上中学校は、今も健在なのでしょうか。
もちろんあのス石炭トーブは使っていないでしょうけど(笑)

_ 五右衛門さん ― 2013年03月07日 11:56

こんにちは。
全てのB型を敵に回す気はありませんが、
その時の状況は、こんな感じです。

母「すごい火事になってるから、お母さんちょっと見てくるから。二人で寝てな   さいよ」
私「嫌だよ、怖いよぉ」
母「大丈夫だから」
 ほんの数秒後・・・
兄「俺も行く!」
 パジャマの上にズボンを履いてセーターを着て、
 アノラックをはおいながらあわてて長靴を履いて、玄関を出ていく兄。
兄「お母さん、待って~!俺も行く~!」

私「お兄ちゃ~ん。行かないでよ~」
 布団にもぐって泣く。ただひたすら泣く。泣く。泣く。

疑問 母はなぜ、兄に戻るよう言わなかったのでしょうか。

_ 五右エ門 ― 2013年03月07日 21:26

大笑い!爆笑!

でも、お母さんは、お父さんがいない日だったから、火事の具合をみてどうするかを判断するために見に行ったのではないでしょうか?責任感のようなもの…
お兄さんは見たかったのでしょうね。
なんとしても見たい!気持ちはよ~くわかる(笑)

お母さんはなぜお兄さんに戻れと言わなかったか、男だからなんでも経験させたかったのかな…答えになってないね(笑)

お父さんが帰って来てから、お母さんは怒られなかったかなあ…

_ 五右エ門 ― 2013年03月07日 21:31

アノラックなんて今じゃ誰もわからないよね。
当時のダウンジャケットのようなもので、これ以上暖かい物はない感じでしたよね。ダウンジャケットなんて言いすぎ?
私は赤のアノラックを着ていた。

_ おこちゃん ― 2013年03月07日 22:11

ですよね~。
アノラック、ってなにさってかんじですよ。
私はなんと花柄のアノラックで、嬉しくて詩を書いて先生に褒められた記憶があります。
詩というものはそういうものなんですよね。無理やり書いても褒められない。
あ、すみません。話が飛んだ。
飛んだ飛んだ飛んだ飛んだ飛んだ♪←この歌詞は無理やり書いたとしか思えない(@_@;)

_ 五右衛門さんへ ― 2013年03月07日 22:27

下のコメントも五右衛門さん宛てでした。
母にそんな責任感なんてなかったと思います(笑)
そんな母が父にあとで怒られたかどうかは知りませんが、大事な大事な8歳の娘を家に一人置いて行くなんて、あの父には考えられなかったはず。
おそらく父なら私を丹前(たんぜん?)でくるんで、背負って見に行ったと思います。でも、子どもに見せるものではないですね。火事の現場なんて…。
で、父はこの時もタミーちゃんの洋服をおみやげに買ってきてくれたわけですよ。
しばらく前の話(カテゴリ:昭和)にもどりますけどね。
なぜ高校教師の父が毎年東京に出張していたかというと、
工業高校の生徒は当時、「金の卵」だったからです。
東芝とか日立とか、電気関係の会社から生徒が引っ張りだこだったみたいでした。父は生徒の就職関係の業務で東京出張していたという話です。

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