ちらちらと初雪2012年11月18日 18:59

「わたし、またブログはじめようかな。」
「緑内障のこととか、身障者のこととか、載せてもいい?」
私がそう言ったら、夫は「いいんじゃない? 別に隠しているわけじゃないから、知っている人は知っているし。」と言ってくれました。

思えば猛暑が続いた今年の夏は長かった…。

ブログを続けているということは、毎日に活気がありました。楽しいことがあると誰かに教えたくなって、綺麗なものを見ると誰かに見せたくなって、そんな日々の出来事をブログに書くことで、毎日がとても充実していました。
…でも本当は、ブログを続けることで自分を元気に変えていたのかもしれません。自分のことを含め、自分の周りには色んなことがたくさんあって、だんだん現実の自分とブログの中の自分とに、小さな隙間ができてきました。
そして、3か月。
今日は青空から舞い降りる雪を見ました。
曇りのち晴れ、時々雨。ところによっては雪!

私は今日からまた、ブログを始めたいと思います。

ちなみに、途中「雨ニモマケズ」の詩が混入してしまいましたが、この日はどうしてもこの詩が私の心の中から離れず、声に出して詠むこともできなかったので、この場所を借りました。

明日の朝の最低気温は氷点下の予想ですよ。
私の大好きな冬がやってきました(^v^)
では、また明日!
みなさんのコメントおまちしてまーす♪
(…見てくれた方、よろしくね)

ここ数ヶ月のできごと ①2012年11月19日 13:44

 夫の趣味は読書です。でもここ何年か私は彼が本を読んでいる姿を見たことがありません。未読の文庫本は本棚に何十冊もあるのに、ずっと並んだままです。
 夫は緑内障という目の病気を患っています。白内障という病名はよく耳にしますが、緑内障と言われても、はて?どんな病気?と誰もが思いますよね。
 緑内障にもいくつか種類があるようですが、素人の私が簡単に説明すると、網膜神経節細胞が死滅する進行性の病気で、視神経が死んで無くなり、視野が欠損するというもの。それでもうまく言えないけれど、一度喪失した視野は回復することが困難なため、日本における失明の原因のとされる病気のトップが、この緑内障だそうです。

 さて、夫の話にもどりますが、今年の春、前から欲しかった拡大読書機が視覚障害者は1割負担で購入できるという情報を知り、自分は1級から6級まである身体障害者に該当しないかどうかを調べてもらうことにしました。けれども医者には「該当しない」と言われ、それはそれでよしということで、高価な拡大読書器を購入できないことは残念だったけれど、心のどこかにはほっとした気持ちがありました。なぜなら、夫は1年ほど前から車の運転をやめ、自転車に乗ることもやめました。眼精疲労のためか頭痛もひどく、頭痛薬は手放せませんでしたし、仕事でもパソコンの字が見えなくて、ずいぶん苦労していたようです。だから、自分の視力が今どのような状態なのか、本当は不安だったのだと思います。

 ところが、夫の視力は急に低下し、個人病院から医科大学附属病院を紹介され、数々の検査の結果、悪化していることがわかりました。しかも3ヶ月前には該当すらしなかった症状がいっきに進行し、身体障害者2級が交付されました。
 正直な話、ショックでした。私があれだけショックだったのだから、本人はもっとショックだったと思います。確かに、パソコンの字がますます見えなくなってきたと話していました。すれ違った人に声を掛けられても、結局誰だか分からなかったということもありました。家でも、テレビを見る距離が以前より近くなったなと思っていました。道で私に気付かすに通り過ぎてしまうこともありました。おかしいなと思うことが、日常でもいくつか確かにありました。

 でも、夫は前向きでした。あまり落ち込んでいる様子はありませんでした。いつも明るくて、障害者手帳の手続きやその他諸々の申請を、自ら積極的に行いました。私は、そんな夫に励まされ、そこに立ち止まることなく前に進むことができました。自分が以前仕事をしていたときによく口にしていた「ピンチがチャンス!」という言葉、今こそこの時だと、思いました。障害なんてなんのその!明るく笑っていられました。
…つづく

おとめ倶楽部が開催されました2012年11月19日 16:15

 まず、おとめ倶楽部についてですが、この名称について、庶務であるわたくしの不手際により、6月に開催されたときのブログにはおとめの会と記載してしまいました。おとめ倶楽部が正式名称です。関係者の皆様、大変失礼いたしました。

 このおとめ倶楽部は以前も紹介しましたとおり、昭和60年代に一緒に子育てを楽しんできた今で言うママ友です。メンバーはたった3人ですが、10倍のパワーがあります。(これって、ただのオバタリアンってこと?というか今どきオバタリアンなんて言わないのかな…涙…)
 この会の組織は、会長、副会長、庶務となっており、最年少の私は当然庶務担当となっております。

 今年は2回目となったおとめ倶楽部、今回は秋ということで美しい紅葉の見える場所を設定いたしました。いかがでしょう。(写真)

 ここは、盛岡市にある「南昌荘」というところのお庭です。南昌荘は、盛岡出身の実業家瀬川安五郎という人が明治18年頃に建てた邸宅で、盛岡には数少ない明治の立派な家屋と名園が残されています。

 さて、おとめ倶楽部はいつものように、近況報告やら最近の政治の話などを楽しくお喋りしながらお食事、食後のコーヒーと場所を変えていくのですが、今回はなんと、副会長の計らいで盛岡市鉈屋町かいわいを散策するという、いきなりの勉強会も行われました。
 鉈屋町は、江戸時代から明治時代にかけて、城下町盛岡の北上川船運や数ある街道からの入り口として栄えた地域です。見学した盛岡町屋は、間口が狭く奥に長く、大きな神棚が設けられている常居(じょい)という部屋は、2階を載せず天井をはらない吹き抜けになっていました。訪ねた1件は当時は八百屋さん、もう1件は酒屋さんだったとのこと。当時の風景が目に浮かんでくるような空間でした。

 おとめ倶楽部、なかなかの一日でした。

 組織紹介
  会長   ゆきちゃん
  副会長  いくちゃん
  庶務   おこちゃん

ここ数ヶ月のできごと ②2012年11月20日 13:25

 昨日のNHKのアサイチという番組で、緑内障について放送されたみたいですね。残念ながら私は見過ごしてしまいましたが、友達がメールで教えてくれました。また、夫も同僚に教えてもらったみたいで、いろんな偶然にびっくりしました。
 夫は30代の頃に、職場の健康診断に初めて眼圧の検査が加わり、その時に異常を見つけることができたそうです。ですから正確な発症時期は不明です。自覚症状もなかったそうです。それからずっと点眼治療を続けてきました。手術をする機会もあったようですが、成功しても現状維持、失敗すれば失明…という手術を受けるころに対し、いろいろ考えたのではないかと思います。結局、手術は受けませんでした。
 今回交付された身障者手帳の2級とは、視覚障害でいうと1級は失明、2級はその手前ということになります。夫は毎日に仕事に行っていますが、いったいどうやって仕事をこなしているのでしょう。駅まで歩き、電車に乗り、また歩き、不思議です。昨日は人のために遅くまで残業してきました。職場が明るいので、外に出ると真っ暗闇の中に立っている自分がいるそうです。私たちなら真っ暗な場所にいても、だんだん辺りの様子が見えてきますよね。でも夫はその反応が遅いというか今はほとんど無いというか、そんな感じなのだそうです。それでも道路に出れば車のライトや商店街等の明かりがあるので、それを頼りになんとか歩いて来れるようです。交差点の信号は、夜は明るいので見えますが、むしろ昼は全体が明るいので、信号がある場所すらわからない、ということを最近夫から聞いて初めて知りました。
 そんな状態でよく普通の生活ができていると思います。最近お世話になった社労士さんには、夫に「奇跡と言わざるを得ない」と言われました。
(これは、我が家の今年の流行語大賞にノミネートされています。)

 いつだったか、夫が洗面所で何やらガタゴソと探し物をしている時がありました。今年のことです。聞くと、歯磨きのチューブを探しているとのこと。私はその時思いました。毎日使うものは同じ場所に置かなければいけない、と。私も娘も、歯ブラシこそ置き場所は決まっているものの、コップや歯磨きチューブの置き場所なんて考えたこともありませんでした。しかも棚の上には、クリームやヘアケアのスプレーなど、あったりなかったり乱雑に置いてあり、これは「人にやさしい環境」ではないと反省しました。その日から洗面所はすっきりしました。もちろん浴室も同様です。今は夫が使うシャンプーと石鹸しか置いておらず、私の洗面道具やシャンプー類は、浴室には置かないようにしています。また、石鹸置場も、石鹸が白いのでわかりやすいようにショッキングピンクの石鹸箱に変えました。100円ショップで今はやりのあの色です。
 このように、少しずつではありますが生活空間が変わってきています。それは、私にできること。正直なところ、私にはこんなことしかできないのです。

 さて、最初に出てきた夫の同僚ですが、どうして仕事に行ったのにアサイチが見れたのか、この日は遅刻したのだろうかと疑問に思っていましたが、アサイチは朝の連続テレビ小説の後の番組なので、8時15分から始まります。つまり車で通勤している彼は、ナビで番組を十数分見ることができたということです。最後は名探偵コナンのようになりました。

…つづく。
(写真は、南昌荘のもみじの小道です)

ここ数ヶ月のできごと ③2012年11月21日 15:05

 夫婦の趣味と言えば、旅行でした。しかも「ケチケチ旅行」と称して、車中泊の旅が大好きでした。主に北海道が多かったのですが、たいがいは道の駅やフェリー埠頭の駐車場に泊まり、気ままな旅を楽しみました。時には愛犬ハナを連れて、ワゴン車に川の字?で寝ることも。温泉で体を温めて寝る、朝ご飯は前日に買っておいたパンやお惣菜、昼と夜は地元の美味しいものを食べるといった感じです。
 
 私たちは結婚(2度目)して5年目ですが、北海道は10回以上、ほとんど制覇したと思っています。夫は函館なら目をつぶっても歩ける!なんて言ってました(苦笑)
 その他にも、青森、秋田、宮城、福島、山形もちろん岩手といろんなところを旅しました。

 しかし今年に入って、私たちが旅をしたのはただの1回。旅行会社で企画した「秋田竿灯まつり」だけです。 夫は昨年から車の運転をやめたし、使用していた車も処分しました。私は長距離の運転は苦手だし、ハナも老犬になってペットホテルもかわいそうかな…といろんなことが重なって、結局どこにも行きませんでした。特に、夫の眼精疲労による頭痛は土日にも引きずっていたし、私も暑さが苦手なので外出したくなかったし…。

 でも、やっぱりどこかに行きたいという思いは次第にストレスになり、思い切って夫を秋田竿灯まつりに誘いました。すると夫は、「目が見えるうちに行ってみるかな。」と…。私は正直戸惑いました。目の見えるうちに…って。本当は自分も同じことを考えていたからです。

 いよいよ8月5日。待ちに待ったバスの旅。詳しくは8月7日の記事に記載してあります。ご覧下さい。

 秋田竿灯まつり、それは素晴らしいおまつりでした。もっと早く見ておけば良かったと思いました。提灯に灯されたろうそくが、竹竿に稲穂のように吊らされて、その明かりが遥か遠くまで続いていました。それは、なんとも言えない不思議な光景でした。初めて東京ディズニーランドの夜のパレードを見たときの感動、いやそれよりも感動したかもしれません。
 ふと横にいる夫の表情をうかがいました。楽しそうでした。喚声をあげていました。拍手もしていました。見えているんだと思いました。この風景、夫にはどんなふうに映っているんだろうと思いました。涙がこぼれました。今私たちは思い出を共有している。来て良かったと思いました。

 そして来月、私たちは沖縄に行きます。この旅行はどんちゃんからのプレゼント。今から楽しみです。

いきなりですが「北上市」2012年11月23日 20:03

 私は幼稚園から中学校まで、北上市に住んでいました。ですから、子どもの頃の思い出といえば、ほぼ北上市の風景が浮かびます。
 昭和の人間なら誰でもそうだと思いますが、幼いころにどこでどんな遊びをしたかは、どれも特別で懐かしく、今の子ども達には経験できないようなことがたくさんありましたよね。
 「となりのトトロ」とか「ちびまるこちゃん」なんかを見ていると、うちもあんなだったとか、あんな人友達にいた、私もあんなことして遊んだよ、みたいなことがたくさんあります。洋服だってそうです。いつも私は、丸衿のブラウスにプリーツの吊りスカートを履いていたし、髪型もおかっぱだったり、みつ編みだったり。寒くなると毛糸のパンツもはいたし、下ズボン(ももひき笑)もはいた。夏は蚊帳(かや)の中で寝た。もちろん蚊取り線香をたいて。ハエ取りリボンも部屋にぶら下がっていて、何度自分がひっついたことか。

 最近、その頃の風景を思い出すことがよくあり、あそこにあった川は今どこに行っちゃったんだろう。あのお店は今はどうなったんだろう。あのおばちゃんはあの時何歳だったんだろう。セミの抜け殻をみつけたり、田んぼに入ってヒルに刺されたり、水たまりのアメンボウをずっと見ていたり。いろんな場所が気になります。
 そんなとき、小学校中学校で友達だったwakabonと連絡がとれるようになり、思い出地図を作ることになりました。といってもwakabonは遙か東京に住んでいるのでなかなか会うことができず、とりあえずメールでモノクロというかセピア色というか、そんな記憶をたどっています。
 
 先日、アマゾンで1988年の北上市の地図を1円で購入しました。もっと古いものが欲しかったのですが見つけることができず、とりあえず1988年と言えばぎりぎり昭和だし、都市計画と市町村合併が進んでいる北上市を考えると、一応「古い」北上市の地図だし、なんといっても1円だったので、いいかな?と…。
 
 このブログを見ている方は少ないとは思いますが、もしこの記事にたどりついた方で昭和の北上市のことをご存じの方、コメントください。何年でも待っています。
 ちなみに我々の通った小学校は黒沢尻西小学校です。今集まっている情報は、
 *かぎやデパート
 *寿座
 *ぐんきん
 *黒沢尻南高等学校
 *かやっこ(火薬庫)
 *鍛冶町界隈
 *新穀町界隈
 *貸本屋(一番新しくて少年サンデー、少年マガジン、マーガレット、少女フレンドの頃)

 などなど…。
母校の小学校は、私とwakabonが小2ときに全焼してしまいました。これで、だいたい年代はわかりますよね(^v^)

昭和30年代/女の子の遊び2012年11月23日 22:25

 子どもの頃の遊びで一番楽しかったのは、やっぱり「おままごと」です。庭にござを敷いて、四隅に石を置いて、ここが玄関。ここが台所と決めて、お人形が赤ちゃんで、お人形はたいていお布団に寝かせています。食器は欠けたお茶碗だったり割れたお椀だったり、焦げてぼこぼこになって捨てられたお鍋。みんな実生活に使ったお古でした。お人形の寝ていた布団も、なにかの余り布でタオルなんて上等なものはありませんでした。
 
 庭はたいてい硬い土だったので、ちょっと雨が降ればどろんこになったし、みんな爪を黒くしながらお団子を作りました。まな板と称した平たい石の上に草を置き、手頃な石で草をつぶして汁を作ったり、道ばたのに咲く花をつんで、同様に石でつぶし、綺麗な色のジュースを作ったりしました。ぺんぺん草の実をぱらぱらと採って、ご飯にしたこともありました。
 「あらあら、赤ちゃんどうしたの?」と泣いた赤ちゃんを抱き上げてあやしてみたり、お母ちゃんからもらった古い着物の紐で背中におんぶしたり。人形の着ている服は、誰かからもらった本物の赤ちゃんの洋服でしたが、サイズが合わないのでがぶがぶでした。
 「もうすぐご飯ができますからね。」「そうだ、お買い物に行かなくちゃ。」みたいな会話をしながら、向こうのゴザには、石を並べた魚屋さんや、草を並べた八百屋さんなど、お店やさんを担当する人もいたりしました。
 
 思えばあの頃にままごとで使った水は、生活用水ではなかったような気がします。わざわざ水道の水を汲みに行った憶えはないし、近くに井戸があったけれど、それを使った記憶もありません。もしかすると、雨が降ったらそこに水が溜まるよう雨どいの下に小さなバケツや空き缶を置いていたのかもしれません。
 
 ままごとは人数が多いと役割決めが重要でした。一番人気はやっぱりお母さん、人気がないのはお父さん。ご飯を食べると鞄を持って「行ってきます。」とどこかに出掛けて行くのです。そしてしばらくしてから「ただいま。」と帰ってきます。「あら、お父さん。もう帰ってきたの?」なんて言われながら。
 
 ままごとの思い出はありますか。昭和に限らず、平成の方でも歓迎します。

昭和30年代/女の子の遊び~着せ替え人形2012年11月24日 23:44

 今でもあるリカちゃん人形。実は私も持っていました。リカちゃんが最初に売りだされた頃です。もう着せ替え人形から卒業する歳だったのに、なぜか3月3日にウェディングドレスのリカちゃん人形を母が買ってくれました。

 でも私がずっと遊んでいたのは、タミーちゃんという着せ替え人形でした。リカちゃんより少し大きくて大人っぽいお人形。ライバル人形はいましたが、名前は忘れてしまいました。バービーちゃんだったかな。でも違うような気もします。

 タミーちゃんは、誰が私に買ってくれたのかは記憶にありません。でも、年に何度か父が東京に出張に行っていたので、その時のお土産が必ずタミーちゃんの洋服でした。毎回箱に入ってくる洋服のカタログみたいなものを眺めながら、こんなのが欲しいな着てみたいなと、自分と重ねて見ていたように思います。でも、次はこれが欲しいなんて父にねだる気持ちなんて全くなくて、とにかく買ってきてくれれば嬉しかったです。
 父は酔っぱらうと、よくこの話を同僚にしていました。出張の帰りは必ず東京のデパートのおもちゃ売り場に行って、店員さんに「タミーちゃんの洋服が欲しいんだけど。」と尋ねることを。恥ずかしいけど、いいお父さん!みたいな自慢話だったんだと思います。
 母は洋裁ができたので、余り布でスカートとかワンピースを作ってくれまいした。また、自分もハンカチや紐を結んで洋服を作った気分で遊びました。そうそう、母はお布団も作ってくれました。本物みたいに綿を入れて、敷布団と掛け布団を作ってくれました。嬉しかったなぁ。

 でも、お金持ちのお友達が人形用のベッドとかタンスとかを買ってもらうと羨ましくて、自分も家にある何か、うーん何かと言われても浮かびませんが、とにかく何かを代用して、寝床や衣装箱を作っていた記憶があります。昔は何にもなかったから、とにかく工夫したり考えることが自然と身についていったんでしょうね。

 リカちゃんにはワタル君とか男の子も登場したし、初めてリカちゃんハウスが出てきたときは、おったまげましたよね。平面的な絵をパタパタとたたむだけのおうちだったけど、こんな暮らしをしてみたいと誰もが思ったのではないでしょうか。

呼び方2012年11月25日 00:18

 私は小学校にあがるまで、自分のことを「おこちゃん」と呼んでいました。「おこちゃんにもちょうだい。」「おこちゃんも行く。」みたいな。でも私の本名には、「お」という字は入っていません。母に尋ねても最初から自分のことをそう呼んでいたとしか教えてくれないし、でも近所のお姉さんが私のことを可愛がってくれていて、「○っこちゃん」と呼んでいたのが幼い私の耳には「おこちゃん」と聞こえたのではないかという話も聞いたことがあります。
 
 そして、同じく小学校にあがるまでは、父親のことを「おとうちゃん」、母親のことを「おかあちゃん」と呼んでいました。兄のことは「おにいちゃん」、これは今でも変わっていません。
 
 ランドセルを背負うようになったとは言え、いきなり自分のころを「わたし」、両親のことを「おとうさん」「おかあさん」と呼ぶのには苦労しました。特に家の中ではついつい今までの呼び方をしてしまって、なぜだか恥ずかしいと思ったりしました。きっと、少しお姉さんになった気分だったのしょうね。

 それから1年生の時、教室で先生に「お母さん」と言ってしまったことがありました。あの時はすごく恥ずかしかったなぁ。
 そんな経験ありませんか?

みゃむが歌を歌うとき2012年11月25日 00:34

 8月までのブログにはみゃむと言う人物がよく登場していました。そう、仮り歯が抜けたみゃむ君です。
 
 みゃむという呼び方は、りんごちゃんがつけてくれました。母親である私が再婚し、その相手が今さらお父さんでもないしおじさんでもないし、そこでグッドアイディア!りんごちゃんは私の再婚相手を「みゃむ」と名付けてくれたのです。
 ですから、ブログでみゃむは時々「夫」に変身しますが、基本的には真面目だけどふざけていて、ふざけているけど面白くて、面白いけどホラー好きで、ホラー好きだけどアイドル集団が好きで、好きじゃないと言いながらも「マジスカ学園」を見ていて、実はAKB関係に詳しくて、メンバーの顔と名前が一致していて、頭が良すぎるけど、ちょっと視覚障害者で…。とにかく自分は人見知りだと言いながらも、私には口から生まれてきたんじゃないのかと言われるぐらい、よく喋る男性です。

 そんなみゃむに関してですが、昨日私は発見しました。大発見です。みゃむは弱視というか視野が欠損しているせいか、毎日が頭痛との闘いです。頭が痛くて夜眠れなかったり、24時間頭が痛いという日もあります。それが何日も続いたりします。いや、結構、それは日常的なことです。
 
 ところが最近、るなさんに教えてもらった「頭蓋骨マッサージ」というものを始めたところ、頭痛のない日がたびたび存在するようになりました。…るなさんの頭蓋骨マッサージとは関係ないかもしれませんが。
 とにかく私は気づきました。みゃむは前はよく歌を歌っていたということに。しかもそれは数ヶ月前までのこと、つまり緑内障が悪化する前までのことだったということをです。
 
 みゃむは何をするにも、メロディーは合っていますが歌詞がでたらめの歌を歌っています。例えば何?って思いますよね。例えばクラシックで言えばシューベルトの「野ばら」とか「子守り歌」、歌謡曲で言えば演歌以外なら何でも。童謡だった「ぞうさん」とか「やぎさんゆうびん」その他なんでも。合唱曲なら「大地讃頌」。一番よく歌うのは「もみじ」かな…。秋の夕日に照る山もみじ~♪しかも低音部。私とハモって歌うのが好きみたいです。私もアルトだったので、ホントは低音部なんですがね(笑)
 で、頭痛のない日はよく歌を歌う。とにかく一人で歌っている。しかし、歌わない日もあるのです。つまり、つまりです。歌わない日と言うのは、頭の痛い日みたいなのです。しかも、頭痛の日に必ず歌う曲が1曲だけあります。それは、「どかべん」。しかも曲の最後の部分です。「がんばれがんばれどかべん、やまだた~ろう~♪」の歌詞に、自分の名前を入れて歌うのです。必ず歌うのです。
 
 野球少年だった、いや大学まで野球をやっていたようです。そんなみゃむ君。口癖は、「頭痛のない国に行きたい。」「俺の頭痛を治してくれる人がいたら、千円あげてもいい!」(ちっちぇ~ (;一_一) ) 
 今はボールが見えなくなって野球ができなくなっちゃったけれど、私はみゃむとの言葉のキャッチボールはとっても楽しい!特に速球!私はそう思っています。

 明日はどんな歌が聞けるかな。楽しみ!楽しみ!な私なのでした(*^_^*) 今日のわんこ風☆